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「千夜千冊」反応 851-898

「松岡正剛の千夜千冊」への密やかなる反応 851-898


「」内は抜粋。
心に引っかかったところ、詳しく自分で調べてみたいところ、
知識としてノートしておきたいところ、などなどです。
単なるミーハー精神で抜書きしているところもあります。
→印つきのコメントも私の反応のひとつです。



851:トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』(竹内書店):
Tristan Tzara : Sept Manifestes Dada, Lampistries 1963
読んでおきたい。ダダ。自分にとっては未完結のテーマ。
シュルレアリスムについて数冊読んだが、やはりダダを知ることは先決のように思う。
ダダは特別。ここの現代芸術はダダから始まったから。
当たり前のことなのだけど、あるていどの同テーマについての文献をめくってしまうと、
見たことある写真ばかりが並んでいる。そこで、見たことのない資料が内容以上に貴重に思えてきたりする。
「『トリスタン・ツァラの仕事』浜田明訳 思潮社 1988」
「『トリスタン・ツァラ』大平具彦著 現代企画室 1999」
「本表紙はソフトカバーで黒羅紗にホワイトブルー系のシルク刷り。粟津潔の装幀だった。
 版元は竹内書店。この竹内書店はいったん潰れそうになって会社更生法で新社で踏んばり、
けれどもほどなくやっぱり潰れてしまった。雑誌『パイディア』でも有名を馳せたが、いまはない。
消滅した。名物編集長の安原顕も死んだ」
「世にダダ宣言とは呼んでいるが、これは7つの断片的な宣言を後世がまとめたものだ」
「第1宣言にあたる『アンチピリン氏の宣言』は1916年7月14日のチューリッヒ度量衡会館ホールでの世界初の
「タダの夕べ」のときの口上をノートにしたもので、「ダダはスリッパもなく比較もない生活だ」がいまさらながら、懐かしい」
「「ダダ」という言葉は1916年2月8日午後6時、チューリッヒのカフェ・ド・ラ・テラスで
ツァラが突然“発見”したことになっている。これはどうもハンス・アルプの説らしい。
ツァラはチューリッヒ大学に留学中の20歳の学生だった」
「このあとツァラはフーゴー・バルとともに、世界史上最も危険ではかない「キャバレー・ヴォルテール」を、ダダの牙城にしていった」
「いわゆる「ダダ宣言」は次の1918年のときのものをいう。チューリッヒのマイゼ会館で読まれ、
『ダダ』3号に掲載された。この雑誌はツァラ一人の編集だった。パリにダダが飛び火したのは、この宣言による。
 「ダダ。この一言こそが諸観念を狩猟に導く」
 「家族の否定をゆるす嫌悪から発したもの、それがダダである」 「ダダは何も意味しない」」
「第1宣言と第2宣言のあいだに、「1917年」という決定的な年が挟まっている。
ぼくは未来派やダダやシュルレアリスムのことを学生に講義するときは、この「1917年」をおぼえなさいと言う。
そして、わかりやすく3つの事例をあげ、この3つの意味をつなぎなさい、わからなければ調べなさいと言う。
ロシア革命、デュシャンの『泉』、マーレヴィッチの『白の上の白』である」
「1920年になって、ツァラはパリに移り住んだ。フランシス・ピカビアとの出会い、
『リテラチュール』誌を創刊したばかりのブルトン、アラゴン、スーポーとの出会いが大きい。
ここでかれらは派閥政治家のごとく団子状になり、それぞれの示威集会の乱打になっていく。
傷のなすりあいのようなものだった」
「ツァラ得意の根本対同」
「最後の第7宣言にあたる『弱き恋と苦き恋についてのダダ宣言』は、
1920年12月にポヴォロズキイ画廊で開かれたピカビア展のときに読み上げられたものだが…
すでにブルトンとの亀裂が生々しく、いまや読めたものじゃない」
「ダダはベルリンやニューヨークに飛び散ったまま、劇的に結ぶなら、
1924年のブルトンの『シュルレアリスム宣言』とマーレヴィッチの『シュプレマティズム宣言』で消えたのである」
「実はトリスタン・ツァラその人をここで終わらせてはつまらなかったのである。
ダダはツァラを離れ、ツァラはダダを離れたけれど、ツァラその人は妙に仕事に熱中していたからだ」
「もともとツァラはルーマニアのユダヤ人の家に生まれている。かなりの裕福な家だったようだ。
ブカレストの中学でフランス語の授業をうけて二重言語の感覚にめざめ…」
「年の29歳のツァラはまず結婚をして、翌年はアドルフ・ロースに設計を依頼した家づくりに入ったのである」
「33歳にはブルトンと和解してのシュルレアリスムに参画するのだが…」
「ガルシア・ロルカが虐殺された1936年には、スペイン支援委員会の書記として、エレンブルグとともに内戦のスペインに赴いた」
「その一方でアラゴン、カイヨワ、モヌロとともに「人間現象学研究会」を結成した。それが40歳のときである」
「大戦下、ツァラはそのままレジスタンス運動に邁進して、地下出版に協力するとともに地下放送局の
主宰にさえ乗り出した。パリ解放後の49歳のときは、オック語の研究所の設立にも尽力している」
「ツァラが1947年にフランス共産党に入党し、その後はしだいに新聞・ラジオ・講演を次々にこなして
いく“立派な知識人”になっていた…」
「1960年には、ツァラはまだ存命だったということである。このときのツァラはサルトル、ボーヴォワール、
ロブ・グリエらととともにアルジェリア独立戦争の「121人宣言」に加わって、64歳の気を吐いていた」
「こうなると、われわれはツァラをアルプやスーポーやエルンストとくらべるのではなくて、
まして辻潤や高橋新吉とくらべるのではなくて、むしろ大沢正道や埴谷雄高とくらべたほうがいいということを知る――」

853:奈街三郎・茂田井武『電気スケート』(銀貨社、星雲社):
読んでみたい。茂田井武。「『月夜とめがね』」。逸話ではなく、ただ純粋にここで見た絵に魅かれた。
「茂田井は画家などになろうとはしていないのだ。額縁をつけた絵を描きたくなかったのである。
この気持ち、鴨沢祐仁、まりの・るうにい、佐々木マキ、南伸坊を見ていて、よくよく頷けた」

854:ハーバート・サイモン『システムの科学』(ダイヤモンド社、パーソナルメディア):
Herbert A. Simon : The Science of The Artificial 1969・1981
ぜひ読んでみたい。合理性についてもお勉強しとこう。それにしても、システムシステムといっても
ぴんとこなかったものが、The Artificialですっと本質をつかめる。
「ぼくはこの本で、システムの意味、分解可能なシステムのもつ特性、脳と記憶とコンピュータの関係、
…思考の心理学がありうるということ、階層の設定の合理性…ひとつながりの文脈で初めて学んだものだった」
「アーティフィシャル(人工的・人為的)であるということはそのシステムや部品が静的で孤立的であったり、
自然と正反対の性質をもっているということではなくて、むしろシンセティック(合成的)な動向の一部にいることを
意味しているということである」
「増補版の本書にはノーベル賞記念講演として有名な「企業組織における合理的意思決定」が収録されているのだが、
ここには“アメリカ合衆国というシステム”の合理的選択の秘密が窺えるようで…」

855:デイヴィッド・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』(新潮文庫):
David Herbert Lawrence : Lady Chatterley's Lover 1928
「男たちの同志的関係がどういうものかは、のちの『カンガルー』という作品で叙述されている」
「ロレンスの浪漫的世界放浪者とでもいうべき生涯」
「ロレンスの夢想癖は地上の理想郷を求めるものだったのである」
「ロレンスは、イギリスとヨーロッパがつくりあげたピューリタニズムの生活倫理とピューリタニズムの文学に背を向けたかったのである」
「ロレンスとフリーダが転々とした逃避行は、転地先だけを追っただけでも、その甘美でノーマッドな
「普通社会での定住拒絶」の本質が見えてくる。フィレンツェ、カプリ島、バーデン・バーデン、シシリー島、
サルジニア、セイロン、オーストラリア、アメリカ、ニューメキシコ、そしてメキシコである」
「『翼のある蛇』を書いた。この有翼龍蛇とはロレンスとフリーダそのものである。
ロレンスはしだいに男であって女であるような、それゆえ女であって男でもあるような、そういう両性具有の「あわい」に入っていく」

858:寺田博編『時代を創った編集者101』(新書館):
読んでみたい。歴代雑誌。
「長野生まれの3人がつくった筑摩書房と、小尾俊人が起こしたみすず書房である。筑摩書房の3人とは古田晃・臼井吉見・唐木順三のこと」
「昭和のファッション誌なら、なんといっても中原淳一の「それいゆ」だ」
「少女漫画はこの「ひまわり」こそが源流になっている。コシノジュンコ、高田賢三、
金子功はさらにそのあとに創刊された「ジュニアそれいゆ」で育ったデザイナーたちである」

860:ジャン・ポール・サルトル『方法の問題』(人文書院):
Jean-Paul Sartre : Question de Methode 1960
必読。サルトルの『嘔吐』を読んでというかめくって、なんとなくわかったかなということが明確になった。
やはり、私には読解基礎が足りないようだ。いかに哲学書を読んでも入り込めないところがある。
こうやってくだいて書いてあるとよくわかるし共感もする。わかるようになってもっと先に進みたい。
「第2次世界大戦が終わった1945年の秋、サルトルはメルロ=ポンティ、ボーヴォアール、レイモン・アロンらと
雑誌「現代」を創刊し、サルトルがその編集長になった。このときサルトルが掲げたスローガンが「アンガージュマン」である」
「自由はこの拘束とぶつかることしか生まれない」
「日本でも江藤淳が『作家は行動する』を書いて、このサルトルの呼びかけに応えたものだった」
「つまりこの嘔吐は「実存に対する反応」だったのである」
「サルトルが「内面性」や「本質」というものに明確な拒否を突きつけていることを知ったからだった」
「サルトルの実存哲学は一言でいえば、人間という存在に「本質」があると思いこむ思考法を拒否するところから出発している。
そのかわり、世界や社会にポンと投げ出されてしまった「裸の実存」から思索を開始しようとした」
「そのとき、人間の「内」へ向かうのではなく、断固として「外」へ向かおうとした」
→そうか、本質は空ということなのか。
「これは人間を「関係」として捉えるという方法」
「アントワーヌ・ロカンタンがマロニエの根っこに嘔吐したのは、物自体の実存を捉えたものだというけれど、
また、物自体にいちいち“意味”を見出そうとする者たちへの批判だ」
「ぼくは『嘔吐』で吐き出された実存ではなく、内面の多様性を脱却しようとしたサルトルの見方に親しみを感じた」
「実存(existence)は本質(essence)に先行する」」
「ここにコップがあるとして、コップはそれがどのように使われるかという「本質」を前提にしてそこに存在する「実存」である」
「しかしながら人間は、何が「本質」だということを前提にしないで生まれてきてしまった「実存」なのである」
「サルトルは「実存が本質に先行する人間像」をこそ探求すべきだと考えた。そして、そこからまったく新しいヒューマニズムを樹立しようと考えた」
「1933年のこと、サルトルはリセの哲学教師になるのだが、そこでレイモン・アロンから
ドイツにはフッサールという凄い哲学者がいて、現象学というものを深めていると聞く」
「フッサールの現象学とサルトルの実存主義の相異点」
「フッサールにおいては意識は現象学的に還元されたものであって、意識の本質を「何かについての意識」というところに
特徴づけていた。フッサールはそれを「志向性」とよぶ。それがサルトルでは、意識と世界との関係づけそのものが意識の実質になっていた」
「サルトルにとっては弁証法とは、個人が自由な実践をしていく契機のことである。
自身が絡めとられている状況から止揚するための実践のことをいう」
「外に向かってアンガージュマンを試みる。そうすると、そこには一人の自己ではいられなくなってくる「場」があらわれてくる。
それをサルトルはさまざまな「組織性」だろうとみなした。サルトルが問題にした「方法」とは、このさまざまな組織と接したときの方法のことだった」
「これらの社会的心理的な集列からの離脱こそがサルトルの方法的課題になってくる」
「いったん「溶融的集団性」(groupe en fusion)が生まれることが必要だろうと考えたのだ」
→階級や差別の撤廃。
「サン・ジェルマン・デュ・プレに集ってきたジュリエット・グレコらの黒いセーターの集団は、こういう中から生まれてきたものだった。
かれらは、メディアからは“実存主義の群”と呼ばれて話題になった」
「1968年5月のこと、パリのカルチェ・ラタンの学生暴動をきっかけに…ベルリンでもサンフランシスコでも、
東京でも沖縄でも、学生たちは一斉に「集列」からは離れはじめたのだ」
「パリは「解放区」とよばれ、ルノーの工場では工場の解放がおこり、ド・ゴールはたちまち辞職解散に追いこまれた」
「同じ1968年の8月に、ソ連がチェコスロヴァキアに侵入し、「プラハの春」が蹂躙されたのである」
「サルトルはこのあと毛沢東主義(マオイズム)に加担していくのだが、いったいそれはどういう意味だったのかということ」
「ぼくがサルトルの著作で一番おもしろかったのは、実は『殉教と反抗』というジャン・ジュネ論だったのだ」

861:重森三玲『枯山水』(河原書店):
ぜひ読んでみたい。枯山水。日本人。
「本書の著者である重森三玲がいかにすばらしい作庭家であって、庭のデザイナーであるか…」
「水を感じさせるために水を抜いた枯山水は、日本人の究極の「引き算の美学と思想」をあらわしていた。
そこには「負の山水」こそが真の「胸中山水」であるということが見えている」
「「残余」を意識的にあらわすことが日本人に集中して試みられたとき、仮山水は枯山水に飛躍できたのである」
「重森三玲はこのとき、日本人に「空」が飛来したと書いている。まさに「空」であって、また「白」であって、
また「余」というものであって、「負」というものだ。ぼくはとくにこの飛躍については、「残余の自覚」とよべばよいと思っている」

862:アマール・アブダルハミード『月』(アーティストハウス・角川書店):
Ammar Abdulhamid : Menstruation 2001
読んでみたい。イスラム社会の実態。
「イスラム社会において「性」がどのようになっているかという“内部告発”が、これだけ手にとるようにわかるという小説がほかにない」
「イスラム社会では異常性欲こそが“陰の常識”なのである」
「こんなことが“告発”されているだけでは文学にはならない。このことが文学の中で何に吸収され、
何に飛び散り、何に暗示されるかということが表現される必要がある」

(以上、10.5.2004)

863:今和次郎『考現学入門』(ちくま文庫):
読んでみたい。「考現学」。風俗。いや、それに限らずありのままの現代生活。それを考察すること。
「私の目には涙が流れる。本来気が弱くて、そんな人ごみのなかでの競争に耐えられないような魂を背負わされている私には、
悲しくて涙が流れる」
「いってみれば、「考現学」は「考古学」に対する逆襲である」
「銀座のカフェー・キリンがその代表で、そこには原始人まがいの、
いわばオートバイ族が壁にペンキスプレーで描くような奇怪な「絵」が出現していった」
「それでも3つの“組織”が考現学を大切に扱おうと努力したことを強調しておきたい。
第1は、梅棹忠夫・川添登・加藤秀俊らによる「生活学会」である。これはその後に大阪の民族博物館にまで発展している。
第2には多田道太郎・鶴見俊輔・高田宏らによる「現代風俗研究会」だ。ゲンフーケンという。
このゲンフーケンがもたらしたものは大きかった。第3が本書の編者でもある藤森照信が牽引した「路上観察学会」である。
赤瀬川原平、南伸坊、荒俣宏、杉浦日向子らが参加した」
「荒俣君はここで日向子ちゃんを見初めて結婚するのだが、すぐにその日々は壊れてしまった」

865:アンドレ・ジッド『狭き門』(新潮文庫):
「ジッドはもともと物語は「ロマン」(記録もの)ではなくて「レシ」(語りもの)であることをめざした文学者である」

867:ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス第二版』(岩波書店):
Norbert Wiener : Cybernetics 1961
「フィードバックとは、生物であれ人間であれ機械であれ、ある機能をもったシステムが
なんらかの目的のために何かの行動や作用を開始したときに、そのときにおこった反作用をとりこむプロセスのことをさしている」
「このフィードバックに、正と負のフィードバックの区別がある。
「正のフィードバック」はいまおこっているプロセスをしだいに強調する」
「もし酸素が使いはたされれば、ストーブは消える。これは現状の進行を打ち消す方向にフィードバックがはたらいたからである。
これが「負のフィードバック」にあたる」

868:小野武雄『吉原と島原』(教育社、講談社学術文庫):
読んでみたい。遊郭の歴史。生活史。風俗史。人間。
「時代の順でいえば京の島原・大坂の新町・江戸の吉原となる」
「島原・新町・吉原の三郭は、秀吉から家康に移った30年たらずのあいだに、次々に生まれた」
「それ以前にも遊里はたくさんあった。遊女もいた。中世、長者の館というものが各地にあって、
子君(こぎみ)とよばれる遊女がいて、そこに馴染み客の子夫(こづま)が通った。
そういうところに白拍子が交じることも、追われた平家一門の女官の姿が交じることもあった」
「遊女たちは港町にも集まった。小田原、柏崎、敦賀、下関、堺などは中世から栄えた“女の街”だった」
「なかでも難波の港をいくつもかかえた大坂にはたくさんの遊里が早くから栄え…」
「…ちょっと中へ入れば天満・玉造・阿波座には早くから傾城屋があった。
ただし、これらは正式には遊郭とはいわない」
「ただし、これらは正式には遊郭とはいわない。歴史学では遊里や岡場所というふうに区別する」
「岡場所や遊里とちがって、遊郭は許可制のものをいう。わが国の集娼制がおこるのは遊郭からなのである」
「島原という名は地名ではない。洒落である。ちょうど島原の乱のあとの移転だったので、
遊客たちがここに向かうのを戯れに“島原攻略”といったのが俗称となり、しまいに地名になった。
だいたい日本の地名はこんなふうに定着する」

869:安藤正士・太田勝洪・辻康吾『文化大革命と現代中国』(岩波新書):
必読。文化大革命。タオイズム。四人組の写真を大学講義の資料で見たことをよく覚えています。
詳細は忘れてしまいました。政情が変わって、写真の中の一人が合成で消されていたという
なんともおそまつな「工作」が印象的でした。
「「毛沢東・林彪」派と「劉少奇・登小平」派(トウのフォントなく、あしからず)の対立が表面化していった」
「林彪の毛沢東暗殺指令が発覚し、さらに毛沢東夫人の江青らの四人組が台頭暗躍」
「アメリカに先駆けて人工衛星スプートニクを飛ばしたのも、この米ソ決戦への布石になっていた」
「ひとつは1964年8月にトンキン湾事件がおこったのだ。アメリカの駆逐艦がトンキン湾で北ベトナム魚雷艇の攻撃をうけ、
これに米軍がベトナム沿岸警備艇を撃沈した事件だった。この事件はいまではアメリカ得意の隠密作戦だったことがバレているが、
これをきっかけにアメリカは「ドミノ理論」をかざして北ベトナムに対する北爆を開始する」
「ほぼ同時に腕に赤い腕章を巻いた紅衛兵が登場し、のちの四人組の温床となった「中央文化革命小組」が成立した」
「日本で全学連、全共闘、京浜共闘、赤軍などがしだいに武闘闘争を実践するようになっていったことと、
この文革の武闘化はぴったり軌を一にしていた」
「江青らの四人組(王洪文・張春橋・江青・兆文元=チョウのフォントもない)」
「1976年1月に周恩来が死去、9月に毛沢東が亡くなってしまうと、ここで文革のすべてが息絶えた。あとは四人組を逮捕するだけだった」
「中国型のコミューン主義」
「『歴史のなかの
中国文化大革命』加々美光行著 岩波現代文庫 2001」

870:室生犀星『杏っ子』(新潮文庫):
読んでみたい。数ある中でももっともほっくりと心の中に染み入ってきた回です。
子どものことについては私もよく考えている時期です。共感あり、別の感慨ありです。
室生犀星という詩人が一人の人間として見え、そこに近いものも感じました。
子ども云々という話、つまり親の愛は一番深淵なもの、そういう実感がこのごろあります。無償に。
「ぼくには「父」の体験がない…それがどのような穿たれた陥没であるか、あるいは奇型であるのかは、やはり実感としてはわからない」
「『杏っ子』はあきらかに自伝的である。犀星が自身の生涯を遠くて近い視点から叩きつけている」
「当時、貰い子は貧しい社会の流行ともいうべき習慣で、実の母はいったん里子に出した自分の子に二度と顔を見せないことが立派だとさえ言われていた」
「こういう自伝的な作品は文章に凝っていてはまにあわないのである」
「犀星はあの『抒情小曲集』の詩人であって(「ふるさとは遠きありて思ふもの、そして悲しくうたふもの。
よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや‥」)、『性に目覚める頃』のMなのだ」
「結婚というものが「何か頭の中でぐづぐづ何だかつまらないと呟くやうなものだ」と書いていましたね。これらのこと、ぼくにはあまりにも学ぶことが多すぎました」

871:O・B・ハーディソン・ジュニア『消失と透明化の時代』(白揚社):
O.B.Hardinson Jr. : Disappearing Through the Skylight 1989読んでみたい。境界線の解除。ポストモダン以来、大した進化をしていないのではという疑問が溶け出した気がします。
「同質時代の蔓延である。異質であることをみずから恥じ、異質である仲間を排除する時代だ」
「気にいった何もかもを同化=異化することだった」
「その後の世間の動向や言論社会を見ていると、あいかわらず理科系と文科系は分断されたままなのである」
「むろんかつては理科も文科もなかった。何だって連らなり、どこもが繋がった。それが近代科学の自立とともに分割された。とくに大学教育である」
「「無作為性」や「ランダムネス」に関心をもったためである。これは科学で勃発した量子力学と相対性理論がもたらしつつあった「認識の大幅な変更」とぴったり呼応する」
「モダニズムに立ち止まる」

873:坂口安吾『堕落論』(角川文庫):
所蔵。読んでみます。そうなのか、これ読まないと日本文化考は始まらないほどの存在なのか。
注目度の高さには気づいていて、一度読んでみようと思いながら、ぱらっとめくって読んだ数節で
拒否感を覚えてしまった私でした。あの粗野な感じがだめなんだろうか。おそらく。
悪い悪いといって、解決の見えないたわごとのように見えてしまい不快なんですね。空虚に感じて。
でも、読んでみます。ちゃんと読んでみないと。太宰治も今となっては苦手だし、どうも好みの問題か。
「私の生涯のできごとでこの人との邂逅ほど重大なことはほかにない、と書いたのは檀一雄だった」
「昭和18年、安吾は『日本文化私観』を書く。その後の一連のエッセイの原型になるものだった」
「日本文化が好きな者、とくに伝統文化に深い関心を寄せる者には、安吾の『日本文化私観』と金子光晴の『絶望の精神史』(第165夜)は絶対の必読書である」
「また、これらが指摘していることを理解できないでは、本当の日本文化などは議論はできないとおもったほうがいい」
「日本人は日本を発見するまでもなく、体でわかるはずだということを書いた。
その体でわかることを、日本人は無理をして黙っているからおかしくなる」
「粗野で粗暴な言葉をそのままつかった。また、実感の言葉をそのつど用いた」
「文学界は権謀術数の巣窟だが、そのへんは早くから見抜いていた」
「「きれいごと」には必ずやインチキやウソが充満していることを見抜いていた。
それなら「堕落」あるいは「沈淪」こそが、事態の本質を見抜くための絶対不可欠の態度だというのである」
「人間哲学があるというほどでもない。安吾は日本人の陥りやすいインチキに溺れる体質ばかりを徹底して暴いたのであって、
そこにこそ何かを感じるべきなのである」
「『デカダン文学論』では漱石を槍玉にあげた。「漱石の知と理は奇妙な習性の中で合理化という遊戯にふけっているだけで、
真実の人間、自我の探求というものは行われていない」」
「『太宰治と坂口安吾の世界』(柏書房)には、戦後まもない「文学季刊」の座談会が収録されていて、
太宰・織田・坂口・平野が侃々諤々している。この一冊には安吾が阿部定を訪ねて対話している珍しい記録も載っている」
「『太宰治・坂口安吾の世界-反逆のエチカ 』齋藤愼爾 編集 柏書房 1998」

875:上野千鶴子『女は世界を救えるか』(勁草書房):
一度読んでおきたい。
フェミニズムには興味があるといえると思います。ただ、…私はその中に入って理論を知ったり議論することを
今すぐしたいと思えません。女性の立場については随分長く考えてきました。いろいろな場面も経験しています。
でも、フェミニズムの動きの渦中に入ってしまうと、客観性を失ってしまうようで。自分が女性であるだけに。
だから、興味があるのに読みたくない。そんな奇妙な状態にずっと長くいます。
そうか、上野千鶴子さんの場合はジェンダーフリーなんですね。
それにしても、フェミニズムということば、一人歩きしていませんか。
本来の上野さんの趣旨を汲まない上野さん説の引用が多数あるのではないでしょうか。
「一冊で十年ぶんの上野千鶴子高速遍歴が読める『差異の政治学』(岩波書店)」
「文意には主題を展開するための論理と、その背後で一定ないしは特定のスピードで動くようになっている
時代や社会に関する文意がある。この二つの文意が、同時に動く」
「ポストモダンのフェミニズムのもとでは、ジェンダーのほかに 人種や階級という変数が加わった、
と言われるが、むしろ人種や 階級という変数がジェンダーという変数を隠蔽してきたことを、 
フェミニズムは告発したはずだった」
「ジェンダーの問題の大半を経済制問題に押し流してしまった。
さらには家族労働の意味がしだいに肥大して社会のサイズを越えていってしまった」
「女と男と世界の関係をつくり変えたい男や女たちがフェミニストと呼ばれるべきであり…」

876:宮塚利雄『アリランの誕生』(創知社):
私が韓国語で歌える唯一の歌、だった。今は3行目の頭あたりで歌詞がわからなくなっている。
日本の植民地政策については、できるだけ中立的な視点で書かれた本を読んでおきたい。
いろいろと考えるところはある。あくまで日本人の一人として。
「江原道・慶尚道・全羅道などのアリランだけでも19種のメロディと186種の歌詞があるという。
北朝鮮にも20種のアリランがあるらしい」

877:野坂昭如『この国のなくしもの』(PHP研究所):
読んでみたい。日本。スタイル喪失。なんでだろう。野坂さんにはどちらかというと好印象がある。
タモリさんもけっこう好きです。これをいうと、だいたい引かれるのですが。そこで話が合えば気の合う人ぐらいに思ってます。
でも、おかしなもので、テレビでお目にかかる人の書く本を読みたいと思えなくって。でも読んでみよう。
「「一度の敗戦で文化、伝統を棄て、自らの歴史について考えることを止めた、国家とはいうまい、
こんな民族はない。また、五十年以上前の勝利国のいうがままになっている例もない」」
「俊夫と京子がアメリカ人夫妻をホームステイさせた顛末の奥に日本人の悲哀を衝いた『アメリカひじき』」
「作品がよかったってエッセイがいいとはかぎらない例もゴマンとあるが(たとえば川端康成から村上龍まで)…」
→共感! 川端康成のエッセイについて。
「野坂はデビュー以来ずっとスタイルにこだわってきた。レインコートも、黒眼鏡も、野坂アニミズムも。
これはやってみるとわかるのだが、半分はどこかデラシネな遊びの気分が必要で、残り半分ではそうとうの根性がいる。
タモリと話したときも、「最初はともかくもね、いったん選んだ黒眼鏡をそのままどんな時もしつづけるのは、
かなり覚悟がいるんですわ」と言っていた」

878:ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』(トランスビュー):
Roger-Pol Droit : Le Culte du Neant 1997
ぜひ読んでみたい。仏教。日本国外での仏教の見方。
「意外なことかもしれないが、仏教という言葉はアジアにはなかった」
「仏教、すなわちブッディズムという言葉は1820年代にヨーロッパで生まれた」
「ところが19世紀にこのブッディズムがヨーロッパで恐れられた。仏教は何も考えようとしない「虚無」を
信仰するものとみなされ、そんな虚無にすがるアジアの人間そのものまでが、蔑まれ、恐れられたのである」
「1817年に「仏教」という言葉がフランス語にあらわれる。ミシェル=ジャン・オズレーが最初だったらしい」
「仏教とよばれた宗教思想が、なぜにたちまち極端なペシミズム哲学とみなされ、
たまには「空のキリスト」(ヘーゲル)と呼ばれることはあっても、大半では「意志を否定するもの」と、
また「永遠の死を願望するもの」とみなされて、ついには「一種の痴呆状態をつくるもの」というふうに歪められていったか」
「このような「仏教を絶望の宗教に貶める」というような驚くべき事情が、19世紀のわずか2、30年間のヨーロッパにおきていた」
「近代ヨーロッパは仏教を「神を否定する無神論」と決めつけ、その共犯者としてショーペンハウアーを指弾した」

879:稲垣足穂『一千一秒物語』(新潮文庫):
必読。まだつかめていません。どういう人なのか。だいたいしか。
「なんだかまるで記憶が知覚に追いつくというように、そのことをとっくに知っていたと思えるようなことがある。
知っての通り、ぼくはこれをしばしば「未知の記憶」とよんできた」
「タルホがカントの「無関心の快楽」を俎上にしながら、シェリングやゾルゲルの「壊れやすさ」をへて、
フロイト、ハイデガーを駆使しての「無意識の無限性」をフラジリティに託すあたり、
この「よるべなきもの」の「よるべ」を求めるタルホの思索の独壇場を味わうべきである」

880:ジョルジュ・デ・キリコ『エブドメロス』(思潮社):
Giorgio de Chirico : Hebdomeros 1929
ぜひ読んでみたい。キリコ。キリコはたった一人、どこかカテゴリーにはまらない画家のようだ。
シュールレアリスムの中で触れられるが、そこから離れてからの彼が彼らしかったのかも知れない。
稲垣足穂に通ずるところ、なんとなくなのだけれどわかる気がする。
「キリコが小説を書いていた。『エブドメロス』(1929)という。一介の画家が手慰みに綴った小説だなどと思ってはいけない。絶賛すべき小説だ」
「その3年前に『技師の息子』をエチュードとして書いていた…機関車とは父のことだったのだ」
「キリコはギリシアのヴァロに生まれて、アテネの工芸学校に行っていた。
少年キリコに古代都市アテネが細部にいたるまでずうっと見えていたこと…」
「キリコにはもともと格別の内観力があった」
「1906年である。ここでドイツ浪漫派に出会い、とくにベックリーンやクリンガーの表現主義的な幻想絵画を見てハッとした。
なんだ、ここに自分が表現の手段を探してきたヒントがあると思われた」
「しかしそれ以上にキリコをもっと揺さぶったものがミュンヘンには待っていた。それはニーチェの哲学である」
「ニーチェのツァラストラと超人と悲劇というものだった。
こうしてキリコはニーチェを通して、生身の人間を捨てていく」
「キリコはパリに出て自分のメタフィジック・アートがどのように受け入れられるのか、
自分の表象を晒してみた。すぐにアポリネールが絶賛してくれた」
「すぐさまその(=メタフィジック・アートの様式の)仕上げを見届けて、キリコが次に向かったのは、
なんとラファエロやルーベンスの「古典の規範」に戻ることだったのだ」
「これには嫉妬深いブルトンが驚いて、非難を浴びせた。キリコには先刻周知のシュルレアリスムとの決別である」
「ジャコメッティやデュシャンではないが、キリコは新作を制作することなどには目もくれず、
しきりに旧作の手直しやその模倣や、ときには日付だけを書き替えることを始める。
これはどこか稲垣足穂に通ずるものがある」
「キリコはすでに「面影という本質」の探求に着手しはじめていたわけなのだ」

881:千田稔『王権の海』(角川選書):
ぜひ読んでみたい。神話。奈良とのつながり。三輪山。
「オオタタネコは三輪のオオモノヌシ(大物主)の子だということになっている」
「オオモノヌシはもともとオオクニヌシの代名詞でもあった。
ということは、このオオタタネコの移動の時期に、出雲の国譲りが大和に対しておこなわれ、
そこに「海型」のアメノヒボコ集団がかかわっていたという、そういう読み筋になる」
「日本の誕生にまつわる伝承は、海に始まって大和をめざすいくつものベクトルが、
捩れながら結び合わさり、そこに別々の結び目をつくったまま語られ、記されてきたものだった」
「日本は一途で多様、多様で一途の、その融通無碍において淡走すべきなのである」

(以上、10.6.2004)

882:杉浦茂『少年児雷也』全2巻(河出文庫):
「1907年の湯島生まれ」
「特徴はある。昭和ポストモダンともいえるし、借り物誇大主義ともアナクロ坊や主義ともいえる」
「『杉浦茂 自伝と回想』杉浦茂 筑摩書房 2002」

884:高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』(新書館、中公文庫):
三味線の音は日本を代表する音としてもっと伝えてもいいかも知れないと思いました。
あの乾いた音。湿気のある日本でどうして湿気を嫌う楽器が発達したのか。
乾いているといっても、安定した湿気を必要とする楽器なのか。そのへんを知りたいと思います。

885:徳富蘇峰『維新への胎動』上中下(講談社学術文庫):
読んでみたい。徳富蘇峰。日本。明治維新。三島由紀夫との比較。

886:ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』全6冊(岩波文庫):
Michel Eyquem de Montaigne : Essais 1580~1588
読んでおきたい。書くこと。考えること。
「モンテーニュはある人に勧められ、35歳のころから5、6年をかけて読んだ。
「読みなさい」とは言わなかったけれど、まことに柔和な表情で、
しかし断固としてモンテーニュを勧めたのはルイス・トマスだった。
「私は一人選べといわれればモンテーニュですね」、そう言ってトマスはぼくの目を覗きこみニッコリ笑った。
70年代後半、ニューヨークでのことだ」
「38歳で隠遁したモンテーニュが「博学の女神の懐」に入って、余生を何かを書いて送ろうとした晴耕雨読の方丈記である」
「「思索の速度」…“思速”」
「ミシェル・ド・モンテーニュはマラーノの血を母親から引いている」
「思索すればするほど、執筆すればするほど、妄想のごとき懐疑を抱いた」
「懐疑や疑念をもつということは、それが晴れるまでの時間をすべて引き受けるということである」

887:鈴木大拙『禅と日本文化』(岩波新書):
必読。鈴木大拙。禅。日本文化。欧米国における禅の理解。
鈴木大拙という人の名前は、ジョン・ケージが尊敬していた人というつながりで知った。
やはり、英語で書いていた人なのか。
アメリカで認められているというととかくすごい人という印象をもつが、英語で発信しているか、
あるいは翻訳されているか、それの有無が評価の生まれるきっかけになっているわけだから、
一概にいえないなとつくづく思った。この当たり前のようなことにやっと気がついた。
禅は、日本国外に居て数年して意識し始めた。
「禅というのはブッダの精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかというと、「般若」と「大悲」である」
「この「超越的な智恵」たる般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をする」
「そうやってやっと事物や現象にとらわれなくなったあるとき、ふっと大悲が自在に作用する」
「人間はそもそも「無明」と「業」の二つの密雲にはさまれて生きているものである。
禅はこの密雲に抗って、そこに睡っている般若を目覚めさせる方法なのである」
「大拙が禅を英文で説いたことが世界に禅を広めた」
「禅では、スピリットとソウルの行方だけが、ようするに気分の行方だけが焦点の課題なのである」
「世間で通用するフォーマリズム(形式主義)、コンベンショナリズム(慣例主義)、
リチュアリズム(儀礼主義)などは、これを捨てるところをもって、自己の精神を裸出させる」
「本来にひそむアローンネス(孤絶性)とソリタリネス(孤独性)に裸形のものが還ろうとする」
「キリスト教ならばここで「我は在るなり」(“I am”)ですむかもしれないが、禅仏教ではそうはいかない。
その“am”の未生以前が問われる。それに応えようとしないかぎりは禅にならないと言う」
「キリスト教はどこかでポラリゼーション(分極)をおこせばよいわけである。
神と人とは結局はどこかで分離する。だからこそ絶対唯一なる神がいつまでも残る。
けれども禅はそうはしない。神も人も青苔も水音も、たちまち一緒になって、
またそのそれぞれの「元々の時」に戻ってくる方法をもつ。これが道元の「有時」である」
→ここに、このごろの私の迷いの根源が見えたように思いました。
欧米社会に住みながら、どんどん強くなる分別の意識。それはキリスト教的考えが根底にあるからこそ
なりたつものなのですね。日本の精神がしみついている私には、分別は正しいと思いながらもなにか釈然としていませんでした。
日本と欧米のいいところだけ学んで融合しよう。それが本当にできるのでしょうか。根底が相反するものなのに。
「禅や俳諧が最初から「不確実性」ということを体現しているからである。
だから禅はけっしてディスクリミネーション(分別)にはとらわれない」
「「寂び」を試みに“tranquillity”とも訳しているのだが、これをもう一度日本語にあてるなら、
きっとそいつは「妙」とか「三昧」になるのだろうとも言っている」
「もっと簡便に読みたいなら、英文を工藤澄子が訳した『禅』(ちくま文庫)が入門的。いずれに依るも、用事をつくるように読むことだ」

890:森村泰昌『芸術家Mのできるまで』(筑摩書房):
ぜひ読んでみたい。ちょっと半信半疑ですが、そこまでお勧めならば。
いろいろ見てきたつもりでしたが、たくさんとはいえませんが、やはり視覚だけで判断するのって難しい。
でも、これが本当に社会につながった独自のパフォーマンスだなと思いました。
それにしても、男性が女装することは女性が男装すること以上に意義のあるものなのだろうか。
「1994年4月のある日の午後、東京大学駒場の900番教室にマリリン・モンローが突然に出現した。
Mこと森村泰昌が『七年目の浮気』のモンローと化して出現したのだった」
「このパフォーマンスについては「三島由紀夫あるいは駒場のマリリン」という文章がある」
「900番教室こそはかつて「三島由紀夫VS全共闘」として話題になった“対決”がおこなわれた講堂型教室だった」
「あのとき三島に一歩も譲らず挑発しつづけた芥正彦は、ぼくもその後に何度か出会っていた演出家で、
あれからは土方巽にすら注文をつける論客になり、その後は静かな日々を送っているという」
「と三島由紀夫の国家論的転換の分析」
「差異の哲学ではなく近似の芸術が、改革の社会論ではなく変格の世間体がわかっていないと、できないことなのだ」
「「フィクショナル・ノンフィクション」」
「森村泰昌の著作は、読まなければ人生の損失だと断言できる」
「テレビのニュースを見ていて実は不満なのについついニュースを見てしまっているなら『「変わり目」考』(晶文社)がいい。
社会の切り取り方がわかる。シュルレアリスムがうさんくさいと感じられる向きには『空想主義的芸術家宣言』(岩波書店)を薦める。
心ならずも権威にいつも後ずさっていた諸君には『踏みはずす美術史』(講談社現代新書)がいいだろうし、
Y先生のような脳科学者に疑問をもっている人には『美術の解剖学講義』(ちくま学芸文庫)」
「一日ずつ充実する方法を知りたいなら『「まあ、ええがな」のこころ』(淡交社)で気を休めるべきだ」
「日本という国が「受け身の弱々しいオンナの国」からえいっとばかりに「強く能動的なオトコの国」に性転換した象徴だった…」

891:尾崎紅葉『金色夜叉』(上下)(岩波文庫):
「熱海の戦後最初のカフェである「なぎさカフェ」では、ぼくはついつい柳田国男から“一夜官女”の話をへて
ロラン・バルトに及ぶ「本物もどきの快楽」の謎を解くという喫茶講義に熱が入ったりして
(このとき焼かれて出たクッキーがうまかった)、我ながら大いに愉快な未詳倶楽部となった」
「この紅葉の大実験は何に似ているかといえば、おそらく三島由紀夫や野坂昭如がのちに試みたことの先駆だったと思えばいいだろう」
「このあと、露伴と紅葉は読売新聞に迎えられて入社する。文学欄の充実のためである。
勢いをえた若き紅葉は牛込横寺町に引っ越し、結婚もし、その根っこを張った」
「時あたかも日本の近代資本主義が萌芽して、金持ちと貧乏書生という構図や資本家と女工哀史という構図が見えはじめた時期である」

892:ジャック・タチ『ぼくの伯父さんは、のんきな郵便屋さん』(平凡社):
Jacques Tati : Jour de Fete 1950
読んでみたい。原語がいいな。タイトルが気に入った。私も郵便屋さん、好きです。
市立図書館にはなさそうだ。使えない。
ジャック・タチの映画、私多分観たことがありません。偏屈なんです。
ねこもしゃくしもジャック・タチと言い出すと、見たくたいのです。悪い癖。
ジャン・レノも同じ。グラン・ブルーやサブウェイまではよかったのに。ま、彼はハリウッドに行った人ですが。
「お父さんは額縁職人で、パリ郊外でタチを育てた」
「タチは失敗をすべて見守れる。これは失敗を見ている目が呑気で頑丈であるためで、
あまりにちゃんと失敗の一部始終を見ているために、それが失敗かどうかもわからなくなるからだ」
「タチはだから、映画を作っているというより、いつもオーディオ・ヴィジュアルな体験を作っていると
自分では考えていたようだ。だからタチは「私は外部世界に反対する」とも言っていた」

893:白州正子『かくれ里』(新潮社、講談社文芸文庫):
ぜひ読んでみたい。白州正子。能や仏教の世界。『お能の見方』所蔵しています。
「女には能はできないときっぱり諦めた人が言う、その「お能」なのである」
「もう一冊選べといわれれば『遊鬼』(新潮社)にしておく」
「白洲さんの「わが師・わが友」を綴っている。この師友の広さと大きさが白洲正子を形作ったのである」
「『お能 老木の花』講談社 1993」「『両性具有の美』新潮社 1997」

894:富田仁『メルメ・カション』(有隣堂):
読んでみたい。リヨン号に乗ってきたフランスからの宣教師。まずは琉球の首里に着いた…。
「「有隣新書」の一冊なのだ。このシリーズは横浜かその近辺に因んだものばかりを扱って…」

895:ジグムント・フロイト『モーセと一神教』(日本エディタースクール出版部、ちくま学芸文庫):
Sigmund Freud : Der Mann Moses und die Monotheistische Religion 1939
必読。フロイト。ユダヤ民族。精神分析。フロイト。
ユダヤ民族とキリスト教について勉強してからにしないとだめということですね。自信はないけどやってみます。
「これはフロイトの遺書なのだ」
「フロイトその人の存在がかかえこんだ血の濃さと思索の闇の深さと、そして歴史上の宿題のとてつもない大きさを感じさせる」
「多神教の風土に育った日本人として一神教の社会文化を眺める」
「しかしその後、さまざまな歴史の起源も宗教の意図も、またラカンやドゥルーズやハンデルマンと接して、
フロイディズムのその後も見えてきた」
「本書がなぜ恐ろしい本なのか、なにゆえに引き裂かれた書なのかということを言っておかなくてはならないのだが、
これは一言でいえば、モーセの謎とフロイトの謎が2000年の時空を超えて、これをまさに荒縄のように直結してしまっているからである」
「フロイトは紛れもないユダヤ人である。むろんユダヤ教に対しては敬虔な気持ちをもっている
(フロイトは社会的にはカトリック教会に親近感をもっていた)」
「モーセはユダヤ教を開始した張本人である。モーセによって一神絶対者としてのヤーウェ(ヤハウェ・エホバ)が
初めて語られ、初めて「十戒」が定められ、初めてユダヤの民が選ばれた。割礼も始まった。
ということは、こう言ってよいのなら、それまで歴史上、ユダヤはなかったのだ。ユダヤ人もいなかったのだ」
「しかしそのフロイトは本書において、なんとモーセはユダヤ人ではなくエジプト人であると断定したのである」
「実際にもそれまでユダヤ人の母集団であるセム族とヤーウェとはまったく結びついていなかったし、
だいたいヤーウェという神の名がなかった。またセム族の集団や部族が割礼をするということもなかった。
割礼はエジプト人の一部の慣習だった」
「「類」としての人間精神の暗闇に挑むという研究だった」
「フロイトは、そのモーセ問題にはそれがユダヤ民族の外的傷害である「一撃」がこめられていたと言う」
「モーセが殺されたから、ユダヤの民族の系譜は「父殺し」の原罪をもたざるをえなくなり、
しかしながらそのような外的傷害があったからこそ、ユダヤ教が保持できた、また、その最初の外傷の記憶が
つねにこの民族を悩ませつづけた」
「エスは心の最も深層において、なんらかの本質を貯蔵していて、そこではつねに生の衝動と死の衝動が対峙している」
「フロイトはこのエスを「存在の核」とよび、ラカンは「存在の場」とよんだ」
「このことに最初に気が付いたのはジャック・ラカンであり、ついではマルト・ロベールやエドワード・サイードだった。
かれらはフロイトの精神分析学が重要なのではなくて、フロイトの精神を分析することが
フロイトの精神分析学であることに気がついたのだ。スーザン・ハンデルマンの『誰がモーセを殺したか』もこのことを議論してみせた」

896:頭山満『幕末三舟伝』(島津書房):
読んでおきたい。幕末。「高場乱」。
「テロリストを理想としていた杉山茂丸などから見ると、頭山は甚だ行動力がない者に映ったらしい。
が、その杉山ものちに頭山の図太い魂胆の大きさに敬服していく(『百魔』)。
杉山の息子の夢野久作も『近世快人伝』では、その巨魁性には跪きたいものがあると書いた」
「永畑道子の『凛』(藤原書店)が断然におもしろい。なお夢野久作の『近世快人伝』(夢野久作全集・第7巻)は
この手の人物評伝として、いまなお出色のもの」
「(高場乱は)眼医者であって、男装の女傑。天保期に生まれた。乱と書いてオサムと読む。
少女のころから男児として育てられた。だから男装は乱の正装なのである。長じて興志塾を主宰した。
箱田・平岡・頭山、武部小四郎、来島恒喜、いずれも高場乱の可愛い教え子だった。
だから「玄洋社の生みの母」とも言われた。明治24年に死んでいる」
「石瀧豊美の『玄洋社発掘・もうひとつの自由民権』(西日本新聞社)や、永畑道子の『凛・近代日本の女魁・高場乱』(藤原書店)」

897:ノーマン・コーン『千年王国の追求』(紀伊国屋書店):
Norman Cohn : The Pursuit of The Millennium 1961・1970
「タボル派…かつて歴史上になかったほどローマ教会に正面から批判を浴びせて、神聖ローマ帝国
(ということはドイツ)に、反旗を翻した」
「いまならただちに異端アナキズムともよびたくなるようなタボル派は、最初はワルド派の思想行動に
似ていたが、しだいに過激になっていき、ときにはプラハに集合してフス派のプラハ大学を占拠しようとしたり…」


(以上、10.7.2004)



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